2006年度 〈研究報告の総目次〉
2006.5.11
[日誌]『私小説研究』第7号、発売
4月末に、第7号発送作業を終え、ようやく新しい年度のスタート。新たなメンバーも加わり、今年度(第8号)のテーマについての話し合い。テーマとその年のラインナップが決まるまでは、少し急ぎ足で活動。ということで、テーマについては来週に続く。今年は、従来の私小説研究会の活動とあわせて、もう1つ研究を並行。こちらは、研究会テーマとは、また別の方向から私小説を検証する予定。こちらの成果も、できればホームページで公開を。今年も忙しくなりますが、頑張りましょう。
[梅澤亜由美]
2006.5.18
[日誌]2006年度のテーマ決定、「私小説・理論と実作」
第7号完成の余韻にひたる暇もなく、私たちは今年度の活動に入ったわけだが、試行錯誤の結果、本日2006年度のテーマを「私小説・理論と実作」と決定した。文学の方法論や理論に関してある程度まとまった論を公にしている作家を取りあげ、理論と実作との関係を多角的に検証していこうとする試みである。一般に理論的な小説はつまらないとか、小説家に理論は不必要などと言われているが、理論と実作の往還を通して(私小説)作家の創作(態度・姿勢・理念)の秘密ににじり寄っていければ良いのではなかろうか? もちろん、私たちは理論と実作の乖離を指摘するだけとか、理論の反映を実作の中に探すとか、所謂作家論と同じような手法に満足していてはいけないだろう。個々の論者の切り込み方に期待したい。また本日は、テーマに沿った形で、対象とすべき作家のピックアップもある程度行った。今まで取りあげて来なかった作家などを積極的に検討していきたいものである。
[齋藤秀昭]
2006.5.25
[日誌]2006年度に取り上げる作家を厳選
本年度のテーマ「私小説・理論と実作」(仮)に沿って作家を厳選し、全体の方向性を話し合いながら大まかな分担を決めた。「理論」と「実作」の両面から迫 れる作家で、中心を外さずに多様性を持たせつつと調整もなかなか難しかったが、一年間の発表を通しどのような形になっていくか、楽しみでもある。第一回の 発表は6月15日から開始に決定。
[沼田真里]
2006.6.15
[研究会]第1回[通算93回] 尾崎一雄「虫のいろいろ」
松下奈津美氏による、尾崎一雄「虫のいろいろ」(「新潮」1948年1月)・「一私小説作家の呟き」(「群像」1951年6月)についての発表。今年度のテーマは「私小説・理論と実作」(仮)。理論が先か、実作が先かということはさておき、松下氏は、「一私小説作家の呟き」を私小説批判に対する実作者の痛烈な反論であるとする。議論の中では、私小説家が私小説について言及しても説得力に欠けるのではないかという意見があったが、「一私小説作家の呟き」を尾崎の〈私〉論と読めば、「虫のいろいろ」の主人公の「私」のあり方、宇宙に対する意識とも関わってくるという意見もあった。いずれにせよ、今年度のテーマは難しい。今後の発表者も大変だろう。
[山中秀樹]
2006.7.6
[研究会]第2回[通算94回] 大岡昇平「妻」「私小説について――尾崎一雄氏に答う――」「常識的文学論 私小説ABC」
今回は、沼田真里氏による大岡昇平の発表。扱った小説は「妻」、評論は「私小説について――尾崎一雄氏に答う――」と「常識的文学論 私小説ABC」である。沼田氏は、小説「妻」に副題「私小説」がついていることに注目し、大岡が「私小説」についての思考、手段ともに意識的であることを指摘した。そして評論を細かく分析しながら、大岡の「私小説」批判は、戦争・俘虜体験という「私」の体験を小説で書いてきた者ならではの「内部からの積極的批判」だと論じた。今年のテーマは、1人の作家の理論と実作の両方を精読せねばならない。そして、その両者のどちらに軸を置き、どうリンクさせて論じていくかが問題である。評論と小説を〈貝合わせ〉のように照らし合わせた時に、生じるズレを指摘して、それが何なのかを論じることが出来ればいいのだろうか。難しいところである。
[大西 望]
2006.7.20
[研究会]第3回[通算95回] 徳田秋声「逃げた小鳥」、「元の枝へ」、「仮装人物」
梅澤亜由美氏による徳田秋声についての発表。 文学上の客観性は科学と違い純粋客観ではないため、一つの作品が事実の多面性や相対性を表わすことは不可能であると秋声は主張する。そこで、自らの恋愛事件から同じ材料を扱い、いわゆる「私小説」的な手法で、「逃げた小鳥」、「元の枝へ」、「仮装人物」の三つの違う作品を作り上げる。そうすることによって、恋愛事件を立体的に表現しようと秋声は考える。しかし、「私小説」的な手法で、果たして事実を立体的に描写することができるのだろうか?また、そもそも事実というものは「私」という主観的な視点の中に存在するのだろうか? この問題を究明することによって「私小説」の原点を発見することができるのではないかと思われる。
[彭丹]
2006.8.10
[研究会]第4回[通算96回] 上田三四二「短篇小説論」
今回は山中秀樹氏による、上田三四二「短篇小説論」(「文藝」1973年10月)・「深んど」(「文体」1980年3月)についての発表。山中氏は発表において、上田の「短篇小説論」からは明確な私小説の定義が成されていないことを指摘。また上田の「生き死にをの問題」を通し、人間(生き物)の運命や偶然が「深んど」にも表現されているものの、それが「短篇小説論」を証明するための実作として書かれたか否かについても疑義を呈す。山中氏はこのような背景の一つに、上田がそもそも歌人から出発していることを挙げており、それは一人称で語るスタイルにも繋がることを示唆している。出席者の間ではこのような問題点を踏まえ様々な議論が展開されたが、結局は「短篇小説論」は上田三四二という歌人が書いた上での私小説論ではないかという見解が大勢を占めたと言えよう。その他、上田の運命論的な視点、ありのままの自然現象を味わう姿勢などから日本文化と私小説との関わりについても言及された。歌人からの視点で述べた私小説論というのは特異な点だと思われるが、理論として確立していない点は否めない。山中氏も述べているが、それだけに私小説は理論では語れない、語ったとしても精神といった抽象論に成らざるを得ないのかもしれない。
[渡辺賢治]
[研究会]第5回[通算97回] 坪内逍遙「小説神髄」「当世書生気質」
理論と実作という関係性からだけ見れば今回のテキストはそのものズバリで、一見実に扱いやすい気がするものの、「当世」を私小説的な観点から考察することは非常に難しい・・・。こうした難問に渡辺賢治氏は果敢に挑戦されたのだが、今回はその難しさを皆で改めて確認出来たという点が収穫だろうか。それが可能になったのは渡辺氏の綿密な報告あってのことではあるが、私小説を私小説たらしめる作品内部の構造分析を私たちはしっかりとやっていかねばなるまい。〈「当世」はモデル小説とは言えるが、決して私小説ではない〉というのが私の考えなのだが(渡辺氏も同様かと推察する)、近代文学研究者の中には私小説または私小説的であると考えている人も実際いて、私小説の規定を巡っては未だ決着がついていないのが現状である。今後私たちは、私小説を私小説たらしめている要素を可能な限りピックアップしてみることを通して私小説の定義ににじり寄っていきたいと考えるのだが、果たしていかがなものだろうか。
[齋藤秀昭]
2006.9.14
[研究会]第6回[通算98回] 伊藤整『若い詩人の肖像』『小説の方法』
大西望氏による、伊藤整『若い詩人の肖像』『小説の方法』についての発表。伊藤整の評論より「自伝小説」「私小説」に関する言説を拾い、『小説の方法』で展開される論より「私小説というのは世界に広まった自伝的小説の中の日本的一変種」という、伊藤の私小説の位置づけを確認。また、実作である『若い詩人の肖像』の分析では「『若い詩人の肖像』は私小説と言えるのか?」という仮定のもと、本作品の文体の特徴である「私」の頻出度の高さを指摘し、伊藤整の自己客観化のための翻訳調という傾向を鋭く突いた。これに関連し、文体の問題では、筆者と「私」、作中人物のフルネームや実名との効果・関係性などについて議論がなされ、過剰なまでの「私は〜」という文体の必然性、そこから筆者伊藤整の揺れが見てとれるという指摘もなされた。自伝小説と私小説の間と言える本作品の抱える問題は、仮面紳士である伊藤整も、分類する側に立てば線引きも大らかにできるが、実作者となると書き分けが曖昧になる難しさを如実に表していた。また、そのよじれから、私小説の性質が見えてくるようで大変興味深く面白い発表だった。評論も大変多い伊藤整でしたけれども、発表者の大西さん、お疲れさまでした。
[沼田真里]
2006.10.12
[研究会]第7回[通算99回] 水村美苗『私小説 from left to right』「本格小説が始まる前の長い長い話」
本日は、志賀浪幸子氏による、水村美苗『私小説 from left to right』(以下、『私小説』)についての発表だった。なお、発表者が理論として取りあげたのは、作家自身が「私小説的部分」と呼ぶような「本格小説が始まる前の長い長い話」という『本格小説』の作品の一部でありながら、作品の導入ともなっているような文章である。『私小説』『本格小説』という作品のタイトル、「from left to right」の横書きの〈私小説〉、そして『本格小説』の冒頭におかれる「私小説的部分」、まずはこのような作家の方法に議論が集まった。さて、発表者は、『私小説』を「「私小説」的な装置を踏まえ」て「確信犯的」に書かれたもので、水村にとっては作家の人生に対する興味で読まれるのではなく、「「読み物」「小説」として独立して存在出来る価値のあるもの」でなければならななかったとする。そして、『私小説』において描かれる「私」とは、英語まじりの横書きで初めて可能になった「横書きで表出される「私」」で、「日本近代文学」という枠組みを越えた「文学の普遍的な「私」の問題」を提示しているという。新しい「私」の表現であることは確かなものの、「横書き」と「縦書き」で表出される「私」の差異とは何か。日本とアメリカ、日本語と英語に引き裂かれるアイデンティティーの問題とは言えるものの、それだけでは片づかない。これは日本語の「私」と英語の「I」の差異の問題にもつながるものであり、議論ではそれらの実質的な差異とは何かが話題になった。現在、研究会でも、日本語の「私」をはじめとした日本語の構造と〈私小説〉との関係が考えられているが、これらは興味深い分析対象であるものの、実質的な分析となると難しい。考えるべき点は多く、議論も白熱。個人的には、一度で終わってしまうのが惜しい作品であった。
[梅澤亜由美]
2006.12.7
[研究会]第8回[通算100回] 日野啓三『向う側』
伊藤博氏による、日野啓三『向う側』を中心とする発表が行なわれた。『向こう側』を考察するにあたり、『孤独の密度』などのエッセイを援用し、新聞記者と しての日野のベトナム戦争体験を通して生まれたと考えられる「より深く豊かな、あるいは異様な私」という一言について掘り下げた。彼が体験した「事実」は 「虚構(小説)」でしか表現できないことを改めて論理付けたが、さらに「進化」の形として「個人的な私」を越え、「より深く豊か」で「異様」な「私」に行 きつくのではないかと提言。小説内で展開されている「虚構」を検証し、作中に固有名詞が与えられていないことに着目、さらに体験そのものは「私的」・「具体」であるのに対し、表現されている世界は抽象的であると作品世界を「具体」と「虚構」に二分できると指摘した。
[松下奈津美]